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教育委員会:文化:歴史詳細

安政2年(1855)

○ 此の年、再び疱瘡(ほうそう)流行す。     土人、先年(天保2年)の病苦を恐がくし、男女56人、後志山谷に引き上ぐ、既に餓死の場に立至る。     仁左衛門 びん然の情に耐へず、土人救助に従事し、当霜月より翌年4月迄 米 211俵 此合石87石8斗5合と早割鰊雑漁乾物60背負い番人を以て度々に之を差登せ介抱す。( 佐藤家履歴 ) ○ 翌年、箱館奉行の稟請により種痘医師 深瀬 洋春 土人に 種 […]

安政元年(1854)

○ 請負人 仙北屋 仁左衛門 運上金 565両       蝦夷人を召い、酒4斗・葉煙草20把を与うるに、女共鶴の舞あり( 幕府目付 堀 利熙、村垣 範正 「蝦夷地目撃」 ) ○ 小屋 241軒 アイヌ人口 56人 船 543隻? (按西掌記) ○ 永住 341戸 男女 1,806人 ○ 幕府岩内詰 吉沢 佐十郎 勤中浜小前の漁民へ非常用意 米 160石を応分貸出す。( 佐藤家履歴 )

嘉永6年(1853)

○ 戸数 230戸 人口 1,904人 エゾ人 56人 ○ 烏賊(イカ)の漁獲あり。     未だ、大きな産物となるには至らなかったが、松前地方から岩内場所へかけて、皆、多少の漁獲があった。( 6月、ペリー 軍艦4隻を率い、浦賀に入港 )

嘉永3年(1850)

○ 3、4年頃より鰊建網を始む。従前は、請負人及び2・3人が笊網を使用していた。 ○ 此の年5月、幕府の命により、請負人 雷電より泊臼別までの港湾を測量す。( 上記図面、佐藤家履歴中にあり )

嘉永元年(1848)

○ 嘉永元年・2年 豊漁にて岩内の景気大によろしく自力漁業家、多数立入る。( 佐藤家履歴 )

天保8年(1837)

○ 仙北屋 仁左衛門 厳島神社を御鉾内(現在の福島印刷所前)に移し拝殿を造営す。以前は稲穂崎(現在の御崎地区)にあり。( 佐藤家履歴 ) ○ 請負人 仙北谷 仁左衛門 運上金 550両、松前より65里、百石につき運賃 10両、水主 3歩2朱( 天保年間蝦夷地各場所並運上金 )

天保6、7、8年(1835-7)

○ 此の間、内地凶作の為め、妻子引連れ岩内に移住出稼するもの多く     従前、和人の居住するもの20余戸に過ぎなかったのが西蝦夷地一等輻輳の地となる。( 佐藤家履歴 ) ○ 全国大飢饉