慶応2年(1866)
○ 当時、運上金 1,299両 2分 ○ 12月 幕府より、佐藤 仁左衛門に対し、茅沼石炭 御普譜巨材 15,000石 伐出し、調材御用仰付らる。 ○ 箱館奉行所 在留 英国 抗師 ガール を雇い、茅沼炭山を再掘す。
○ 当時、運上金 1,299両 2分 ○ 12月 幕府より、佐藤 仁左衛門に対し、茅沼石炭 御普譜巨材 15,000石 伐出し、調材御用仰付らる。 ○ 箱館奉行所 在留 英国 抗師 ガール を雇い、茅沼炭山を再掘す。
○ 11月、公命あり、金 400両 幕府へ献納す。 松平 周防守殿を以(もっ)て、更に、佐藤の苗字に白銀 3枚を添えて賞与あり。( 佐藤家記録 )
○ 函館奉行所 茅沼炭山を採掘、翌年、之(こ)れを廃止す。 奉公所は練習蒸気船の需要のため石炭の必要を痛感し雇 大島 惣左衛門 をして各地の石炭を分析せしめた処茅沼の石炭は頗る良好であるとの結論を得たので定役元締坑内幾之進及び大島 惣左衛門 を派して試掘せしめた。結果、惣左衛門 は坑内に留木を使用すれば採掘困難でないと見たので採掘する事に決定し白糖炭山の礦夫を移して使役した。然るに同年3月 […]
○ 岩内場所 稼人 寿吉が、茅沼石炭 箱館 渡 100石 40両で採掘せん事を願い出た。( 北海立志篇 ) ○ 二葉 惣助 寄席場を開く。 ○ 梅沢 市太郎 来住
○ 函館奉行所は、当時、上磯郡茂辺地 矢不来天満宮 官祀 池田 茂逢 に命じ、岩内の厳島神社に北門防禦の守神たる八幡大神を相殿に合祀せしむ。 ○ 函館奉行、雇米人 ブレーク、パンペリーの2人をして茅沼炭山を検せしめしに、其の炭質の良好にして頗る有望なることを復命す。 「 幕末には幕府の傭聘した米国の地質鉱山技師ブレーク、パンペリーの口蝦夷調査を見る迄になった。この両者の学術的検査を経た鉱山記録が如 […]
○ 岩内場所請負人 佐藤 仁左衛門 山道を開き、漁業の暇を以て茅沼石炭を採掘し、石炭100石に付、運賃共 金37両を以て箱館にて買上げられんことを請願す。 ○ 佐藤 仁左衛門 5里の山道を修築し、岩雄登硫黄を採掘す。 箱館に運送し産物会所に納める。明治元年まで続く。 ○ 7月 牛・馬、牝・牡 7頭、官より御預けに相成り、該馬は士官乗馬並山硫黄附下とも兼用す。 追年殖馬是当郡飼馬の […]
○ 箱館奉行所 手附 栗原 善八、茅沼に派遣せられ石炭を試掘せしも坑道の天井崩壊し採掘困難であるとの理由で廃止となる。 ○ 佐藤 仁左衛門、幕府の命により自費を以て当硫黄山を切開製硫黄8カ年他売を為さず官御定めの価格に随い年々之を物産所へ売上ぐ。 ( 佐藤家記録 )
○ 大谷派 東本願寺 第21世 厳如法主、知恵光寺を開基す。 東本願寺掛所(別院)として留守居役(輪番)を置く。 ○ 5月 御鉾内 松本 嘉四郎 方より出火、南東の風強く稲穂崎附近に延焼し藤田 幸太郎 方を焼き鎮火、焼失家屋 80余戸(当時全戸数230余戸) 註 安政6年5月 秋田藩 松本 吉兵衛 紀行に「この頃、火事ありて類焼し運上屋は残れり、近辺普請最中なり」とあり。 ○ […]
○ 安政年間、幕臣 常見 某 イワオノボリをばつ渉せし時、数年を経過せし硫黄製錬の釜を発見す。( 北海立志篇 ) 「安政5年3月12日 常見 栄太郎 堅雪の上を硫黄山に登り硫黄を発見す」 ( 西蝦夷日記 ) 註 この年、硫黄が発見されたのではなく、硫黄採掘の跡を発見したのが真相であると思われる。 道史は、明らかに「前松前時代岩内場所岩雄登の採掘があったが、後、廃 […]
○ 函館 高竜寺 18世 海雲和尚、全修寺を開基す。 ○ 幕府の命により、余市山道越途中字ボロイジャニ川並にシリブカ川(堀株)へ馬舟を相立て往来便宜ならしむ。 ( 佐藤家履歴 ) ○ 佐藤 仁左衛門 雷電山の中央に温泉を発見し、家屋を設け通行の便に供す。 雷電山道の内字ユウナイに温泉の湧くあり、該渓間は岩内と磯谷の中央位置たるを以てここに新規脇本陣(番屋)1棟を初めて取立て諸官史午餐は該 […]