CATEGORY

教育委員会:文化:歴史詳細

明和2年(1765)~天明2年(1782)

この間、17~8年、場所請負人不明   明和2年「恵美須屋 弥三右衛門」利尻礼文宗谷場所に転じ、天明3年「熊野屋 平兵衛」請負うまでの間   「熊野屋 菊池忠右衛門」イシカリ切囲・秋味添船の代わりとしてイワナイ場所の請負を許される。

天明元年(1781)

○ 「蛎崎 佐士」の岩内知行所没収により松前藩直領となる。     「これは、安永9年蝦夷檜山事件により「飛騨屋 久兵衛」が公訴し、天明元年9月松前藩は、家老「蛎崎 佐士」を屋敷預としたが病死。死後、11月、「蛎崎 佐士」の重追放を宣告し知行所を没収せしめた」。岩内場所は、以後、幕領となるまで藩の直領ととなった。

寛延4年(宝暦元年)1751

○ 近江八幡の商人「恵美須屋(岡田)弥三右衛門」、「蛎崎 佐士」より岩内場所を請負う。   運上金 80両 外 冥加あり。(※注 享保年間(1716~)請負人置かるとあるが、現在判明している最初の請負人は「岡田 弥三右衛門」。)          この年をもって岩内の開基とす。            (佐藤 弥十郎 安定)

元禄13年(1700)

  ○ 元禄13年辰年正月、「松前志摩守」幕府へ献納せる元禄郷帳(従松前西在郷並蝦夷地の覚)に初めて「岩内」の地名が漢字で記載される。

寛文9年(1669)

○ 当時、岩内場所は家老「蛎崎 蔵人」の知行所。 ○ 蝦夷大乱を起こし「岩内シリフカ(堀株)」のアイヌのこと文献にあらわる。 ( 津軽一統誌 )

寛永年間(1624)

○ 寛永年間、臣領の知行地であったことが推定される記録あり。     ( 蝦夷地-大阪間航路開始 )

慶長9年(1604)

○ 慶長年間、岩内場所創始せられ藩士の知行所となった。     慶長9年、「松前 慶広」は江戸において「徳川 家康」に謁し黒印の制書を受けた。     その結果、交易は松前氏の独占なり、而して能く幕府に仕え隣藩と交わり、内にあっては新たに城を福山に築いて根拠を固めた。     藩内を和人地と蝦夷地に区分し、蝦夷地を数十の場所に区画し、要所要所を家臣に知行とし与え、蝦夷交易を以って主要の給与とした。 […]

康正2年(1459)

○今より550年程前(足利時代)、岩内地方にも既に和人の往来があったことが窮われる。   当時、和人は東は鵡川から西は余市に至っていたが、その根拠地は東は汐首岬辺から西は厚沢部川に至る海岸数十里(1里は約4㎞)の地であってその間にもまた蝦夷部落があって雑居していた様である。 (道史)「備考  足利時代」