文化7年(1810)
○ 岩内場所支配人 喜左衛門。蝦夷 339人 (土人由来記) ○ 松前奉行支配下にあった岩内場所には、次の官史が配置されていた。ウスベツよりイワナイ、調役1人、下役2人、在往2人、同心4人 (道史)
○ 岩内場所支配人 喜左衛門。蝦夷 339人 (土人由来記) ○ 松前奉行支配下にあった岩内場所には、次の官史が配置されていた。ウスベツよりイワナイ、調役1人、下役2人、在往2人、同心4人 (道史)
○ 岩内・余市間道路を開鑿す。 文化3年、岩内・余市間道路を調査した結果、当年、岩内場所請負人 菊地 新左衛門 古宇場所請負人 福島屋 新左衛門 余市場所請負人 柏屋 喜兵衛 幕府の趣旨を奉じ、各々、番人1人・蝦夷24人を出して之を開鑿し、以て海路神威岬の険所を迂回するを避けたり。 岩内・余市間の道路にして現今の路線と一致せり。 ○ 前代未聞の悪風により、西蝦夷地方 […]
○ 近藤 重蔵、将軍家斉へ陣屋設置上申 「スッツ」は東地口通路勢援の地につき、是又出張陣屋取立「イワナイ」辺を為持可申候 此辺都て追鰊のもの極月末より5・6月頃迄夥敷入込候間陣屋無之候ては蛮船渡来の節騒ぎ立可申 又、右 追鰊人類を以て防禦の一助に用い術も可有之候。( 総蝦夷地御要害之儀に付心得候趣申上候書付 ) ○ 松前 章広、奥州梁川へ移封。 幕府、蝦夷地全島を直轄。
○ 幕府目付 遠山 景晋(金四郎)・勘定吟味役 村垣 定行(左太夫) 巡回の際、属僚をして岩内・余市間道路を調査せしむ( 景晋は、南町奉行 遠山 景元の父 ) ○ 馬14頭、船にて養い来り、硫黄山にて使役。 西蝦夷地は、当時、未だ山道が開けなかったので、東蝦夷地のように広く馬を使うことはできなかったが、岩内場所では文化初年にこれを移入して、硫黄の運搬に使用していた。( 文化3年刊 […]
○ 松前藩ウスベツよりフルウまでの追鰊場に課していた28役を免除する。 (この年だけの特例)
○ 福山の住人 熊野屋 与左衛門 岩内請負。 「当岩内漁場草創詳ならずといえども、素、寛政年間、松前福山 松前 志摩守 殿 城下住人 熊野屋 与左衛門 岩内漁場請負 企候処其功ならず云々。」 ( 佐 藤 仁左衛門 履歴 ) ○ 時の藩主、松 前 志摩守良広の守護神、弁財天を岩内請負人 熊野屋 与左衛門に命じ漁業豊漁海路守護神として祭祀せしむ。( 岩内神社縁起 )
○ この時代の諸文献に現れている事項。 ・ 松前隋商録 イワナイ(小字、シリフカ、シャシトマリ) 鰊、鮫、串貝、鮑、ホッキ、カスペ、イリコ 運上金秋味公儀金 30両、鱒金 65両、尤も鱒第一の場也。 ・ 西蝦夷地分見 運上金 465両、秋味 五千石以上、百石につき20両上納、備米15俵 直領、請負人 大畑 熊野屋 忠右衛門、蝦夷百戸、340人 ・ 西蝦夷 […]
○ 江差地方より、漁民追鰊に来る。 天明4年、江差地方に鰊来たらず。 その後、凶漁20余年に及び、漁民、追鰊と称し西蝦夷地に出漁す。
○ 天明3年より20カ年間期、南部大畑村「熊野屋 平兵衛」請負人となる。 - 松前直領交易請負 - (蝦夷地一件) 注 ※ 後掲の「熊野屋 忠右衛門」「熊野屋 与左衛門」「菊地 新左衛門」は「平兵衛」の子孫、或いは一族と思われる。
○ 熊野屋 菊池忠左衛門 イシカリ切囲・秋味添船の代わりとしてイワナイ場所の請負を許される。