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教育委員会(木田美含む)

安政6年(1859)

○ 大谷派 東本願寺 第21世 厳如法主、知恵光寺を開基す。      東本願寺掛所(別院)として留守居役(輪番)を置く。 ○ 5月 御鉾内 松本 嘉四郎 方より出火、南東の風強く稲穂崎附近に延焼し藤田 幸太郎 方を焼き鎮火、焼失家屋 80余戸(当時全戸数230余戸)      註 安政6年5月 秋田藩 松本 吉兵衛 紀行に「この頃、火事ありて類焼し運上屋は残れり、近辺普請最中なり」とあり。 ○  […]

安政5年(1858)

○ 安政年間、幕臣 常見 某 イワオノボリをばつ渉せし時、数年を経過せし硫黄製錬の釜を発見す。( 北海立志篇 )      「安政5年3月12日 常見 栄太郎 堅雪の上を硫黄山に登り硫黄を発見す」  ( 西蝦夷日記 )       註 この年、硫黄が発見されたのではなく、硫黄採掘の跡を発見したのが真相であると思われる。       道史は、明らかに「前松前時代岩内場所岩雄登の採掘があったが、後、廃 […]

安政4年(1857)

○ 函館 高竜寺 18世 海雲和尚、全修寺を開基す。 ○ 幕府の命により、余市山道越途中字ボロイジャニ川並にシリブカ川(堀株)へ馬舟を相立て往来便宜ならしむ。 ( 佐藤家履歴 ) ○ 佐藤 仁左衛門 雷電山の中央に温泉を発見し、家屋を設け通行の便に供す。      雷電山道の内字ユウナイに温泉の湧くあり、該渓間は岩内と磯谷の中央位置たるを以てここに新規脇本陣(番屋)1棟を初めて取立て諸官史午餐は該 […]

安政3年(1856)

○ 函館 称名寺 16世 観光、帰厚院を開基創立す。 ○ 茅沼炭山、発見される。 茅沼村、武井 忠兵衛 鱈釣船頭に雇われし加賀出生の忠蔵なる者、漁具櫓かい伐採のため登山し、帰路に際してイワ炭とか申す者なりとて忠兵衛方へ持来り、試みに炉に焚きたるに火勢烈しく異なるにより雇い漁夫集り来り、噂に聞く唐船(汽船を云)にて焚く石炭とか申すものなるべしと評せり、其の後、忠蔵、現品を持参してウスベツ村番屋(旧請 […]

安政2年(1855)

○ 此の年、再び疱瘡(ほうそう)流行す。     土人、先年(天保2年)の病苦を恐がくし、男女56人、後志山谷に引き上ぐ、既に餓死の場に立至る。     仁左衛門 びん然の情に耐へず、土人救助に従事し、当霜月より翌年4月迄 米 211俵 此合石87石8斗5合と早割鰊雑漁乾物60背負い番人を以て度々に之を差登せ介抱す。( 佐藤家履歴 ) ○ 翌年、箱館奉行の稟請により種痘医師 深瀬 洋春 土人に 種 […]

嘉永6年(1853)

○ 戸数 230戸 人口 1,904人 エゾ人 56人 ○ 烏賊(イカ)の漁獲あり。     未だ、大きな産物となるには至らなかったが、松前地方から岩内場所へかけて、皆、多少の漁獲があった。( 6月、ペリー 軍艦4隻を率い、浦賀に入港 )

嘉永3年(1850)

○ 3、4年頃より鰊建網を始む。従前は、請負人及び2・3人が笊網を使用していた。 ○ 此の年5月、幕府の命により、請負人 雷電より泊臼別までの港湾を測量す。( 上記図面、佐藤家履歴中にあり )

4 通学区域・学校指定校の変更

岩内町では、学齢児童生徒が就学するにあたって、通学時間・距離などを勘案して、あらかじめ小中学校の通学区域を設定し、就学すべき学校を指定していますが、児童生徒の個々の状況などにより、特例として就学指定校の変更を認めています。 ※詳しくは、岩内町教育委員会までお問い合わせください