明治4年(1871)

○ 6月 開拓使 出仕 星 恂太郎 岩内郡堀株村に製塩場を開始す。 ( 北海工業年表 )
     製塩所 ( 岩内 ) 塩は日用食料品としての外に本道にては特に鮭鱒の製造に大量を使用され頗る需要されたのであるが、製造技術及び天候等の条件に不適で極力之が製造を図ったが遂に成功を見る迄に至らなかった。
     その中4年8月岩内郡堀株に公構営した製塩所は、開拓使官吏星恂太郎之を担当し千葉県行徳より製造家を雇い之を試製したのであるが、6年に至って到底見込みなしとして廃止した。
     松本 十郎 判官の記録するところによると、経費9,531円余に対し得るところ塩50俵価格15両となって居り、官業中最も不成功に終った一例として知られたのである。
○ トーマス・アンチセル(ケプロン補佐官)岩内炭山を調査す。
     彼は岩内炭山に関し次の建言をしている。それには先ず茅ノ澗より2里半礦山ありてタラムウエイ石炭車路に通じ、毎月500屯を採堀し、1屯1円50銭の費用にて之を海岸碇泊の運送船に積出して1屯の平均価3円にて売捌きつつあること、坑手17名、人夫80人、牡牛7頭之に従事し炭脈平均4尺あることを示し、彼の意見としては港湾を治むるに非ずんば到底発展せずとし、今にして施設せば
その費用は3年ならずして償却されるだろうとしている。之を要するに茅ノ澗炭山は有望なるも先ず不完全なる積出港の改築を勧めたのである。