明治12年(1879)

○ 7月 開拓使鉄道港湾主任技師米人クロウフォールド ( Jose.W.Crauford ) 鉄道案報告書を提出す。
     右条中第2案として更に岩内支線の予定順路をも提出した。クロウフォールドが小樽より余市、岩内を経て
     室蘭港に達する鉄道線路を踏査したのは主として茅沼の運炭を目的としたのである。
○ 煤田開採監督米人ゴージョー ( E. Ganjot ) 茅沼炭山の施設改良に力を注ぐ。
     ゴージョーの方針は坑内に鉄路を施設し渋井湾に槌へン堰提を築いて港内の安全を期し毎屯1円以下の経費にて年々7万5千乃至10万屯を得んとした。斯くて6月頃には茶津内より海岸迄1300間、諸坑間860余間道路を開き茅沼及茶津内の鉄工場、其他函館室蘭の炭庫を修理し坑夫等百数十名を使役して新坑数十を開き、就中伊季舗開鑿は大いに進渉した。
○ 同坑夫頭英人バレー専ら開採方法改良、始めてハッパを用ゆ。
○ バレー、赤クロバー播種
     前記くい坑夫頭1度米国に帰り再度渡日の際米国より赤クロバーの種を持ち来り茅沼寄り坂の辺りへ播種すと。
○ 開拓使水理工師オランダ人ファン・ゲント ( Fvan Gendt ) 港湾の調査をなす。
     渋井湾堰提案はゲントによりてこれを変改して茅沼埠頭築造を可とするに至った。
     ( 註 )この際関連して岩内湾を調査したことも想像に難くない。
○ 開拓使分署を岩内古宇郡役所に改む、初代郡長 簗瀬 真精 ( 岩内分署長 ) 7月設置、翌13年3月開庁、明治30年11月岩内支庁となる。
  ■ 開進社 発足村に移民を募り開墾す
     開進社社長岩橋轍輔は株式2百万円、其の利子を以て開墾に従事する計画で明治12年に着手して下湯の川、乙部、長万部、発足、下手稲等に土地を選定し西洋農具を購入して盛んに開拓したが其基礎頑固でなく数年の後遂に解散した。 ( 註 ) 此項拓殖史は明治12年とするが、その他は13年とするもの多し。( 北海道拓殖史 )
○ 工部卿 山尾 庸三、茅沼炭山を視察す。
○ 物産局長 佐藤 秀顕来り、茅沼礦中切坑を伊季舗と改む。
○ 第1、第2石狩丸岩内方面運航。 ( 樋口 忠次郎 年譜 )
○ 岩内古宇両郡の町村名確定。 ( 樋口年譜 )
○ 角 林蔵、来住。
     <参考>明治12年の札幌市、戸数9百50戸、地価1等値1円80銭、2等地85銭。3等地70銭、9等地10銭