安政4年(1857)

○ 函館 高竜寺 18世 海雲和尚、全修寺を開基す。
○ 幕府の命により、余市山道越途中字ボロイジャニ川並にシリブカ川(堀株)へ馬舟を相立て往来便宜ならしむ。 ( 佐藤家履歴 )
○ 佐藤 仁左衛門 雷電山の中央に温泉を発見し、家屋を設け通行の便に供す。
     雷電山道の内字ユウナイに温泉の湧くあり、該渓間は岩内と磯谷の中央位置たるを以てここに新規脇本陣(番屋)1棟を初めて取立て諸官史午餐は該陣屋にて取扱とし常に又兵衛と云うもの家守に置き1所の温泉場を開き諸人を浴させ雪中山越への旅人便利をも為さしむ。
     但し、維新の際、該陣屋へ官より引きつぎ、金若干御下になる。( 佐藤家履歴 )
○ 佐藤 仁左衛門 幕府の命により、御鉾内野塚の曠野に於て畑 85,000坪を開墾す。( 佐藤家履歴 )
○ 函館奉行は、松川 弁之助(越後の人)に命じ、岩内場所幌似・発足の2箇所に御手作場を設け後、常見 栄太郎が在住し之を管理した。
    御手作場の募集移民に対する保護は一定しなかったが、普通は旅費家屋器具及び3カ年間の食料を給与した。
    其の額は、長万部・岩内等の御手作場では1日1人米5合、銀5分で小屋掛料を入れれば1人1年8両2分に当たって居た。
    其、保護は頗る厚かったが移民の質は極めて悪く、保護の期が尽きると離散する者が少なくなかった。